生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

みんな生きていた

 

 8月15日月曜日。終戦の日

 8時半頃、東奥日報の明鏡欄『玉音放送 理解しかねた私』の投稿を読みながらバナナとヨーグルトを食べていると外から車の音。ほしさん。外へ出、近づかないように気をつけて見送る。

 10時過ぎ、誰とも接触しないことを約束し父と車で発つ。父の生まれ故郷である野辺地町を目指す。7歳まで過ごしていたらしい。私は父の幼少の頃の話を聞くのが好きで、思い出の地を実際に見てみたいと前々から思っていた。

 国道をずっと東へ。久栗坂のトンネルを抜けると浅虫の海はあまりに白く、空と海の境が目に映らない。一枚の布で覆うようにして雲がかかっている。

 夏泊半島の入口を過ぎる。昨年9月、おてさんと半島を一周したことを思い出す。詳しくは『レモンとウーロン』参照。(https://kypinn.hatenadiary.jp/entry/2021/09/22/003000

 平内にあるオレンジマートは店休日だった。冷蔵庫の中で埃を被った酒類と、あけすけに陳列されたエロ本。

 小湊川、清水川、堀差川を越えて狩場沢横浜町のあたりだろうか、巨大な白い風車が陸奥湾の向こうにいくつも見える。日差しを受けて車内が暑くなる。「やっぱりケツメイシだぃな」と父が言い、『ケツノポリス4』を聞きながら走る。

 馬門のY字路を海側へ入って野辺地町へ。常夜灯公園。江戸時代、北前船の寄港地として栄えていたらしい野辺地町を象徴する常夜灯。北前船の復元船であるみちのく丸の前で写真撮ってもらった。遠くに夏休みらしい親子が見える。チェキを手にし、像が浮かび上がる前の白い写真を空で振り続ける少年。

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 野辺地漁港沿いを走り十符ヶ浦海水浴場、野辺地海浜公園へ。茂みの、ずいぶんと高いところに青い紫陽花が咲いていた。

 盆なので海水浴場の人はまばらだった。遊泳禁止区域のネットを越えた砂浜に立ち、凪ぐ海に石を投げる。渾身のお笑いを披露する形と相成った。水切り界の大谷翔平への道は険しい。海に落ちる雷は大人になっても怖い。

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 野辺地町立野辺地小学校。「のへしょう」とは言わない。「へじしょう」でもない。略さない。父が小学校2年生の頃まで通っていた。上のグラウンドと下のグラウンド。大人の脚にも堪える傾斜の急な坂道は当時と変わらないという。「帰り道ここでうんこ漏らしたなあ」。

 父が「がんけ、がんけ」と言うので何のことかと思ったら「崖」だった。

 愛宕公園へ。町を見下ろす高台にある。明治天皇巡幸の地。明治天皇と共に東北を巡幸し、現在の野辺地町役場あたりで亡くなった「花鳥」という名の馬の像があった。「立派な馬だったんだねえ」と父に言いつつ、あれが馬の金玉か、と思いながら見る。

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 神隠しに合いそうな煉瓦造りの洞穴かと思ったら苔の生えた岩々、に取り付けられたそれらしい部分から水が湧いていた。よく冷えた水で手を洗う。明治天皇巡幸の際にも飲料水として使われたため「御膳水」と呼ばれているらしい。父がいちばん見たかった場所だという。ここで撮影された若い頃の祖父(父の父)と幼い頃の伯母(父の姉)の、白黒の写真があるのだそう。「意外とわぁの記憶も正しいもんだなあ」。父とふたりで写真を撮った。「年寄ったなあ」と父が言った。

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 さらに高いところへ石段が続いているが時間がないためよす。自販機でコカコーラを買って飲んだ。

 むつはまなすライン。父の生家のあったあたりを見に行く。野辺地病院のすぐ近くだと聞いていた。建物はとうの昔に壊されて現在は更地になっているという。「……この道ば入っていくんだぃな」と言いながらいったん通り過ぎる。父の顔は嬉しそうでも悲しそうでもなかった。私にはわからなかった。

 まばらに古い民家の建ち並ぶ細い道へ入る。「昔そこさ風呂屋あってさ、帰り道にパンツ落として怒られたんだぃな〜」と父が言った。うんこ漏らしたりパンツ落としたり忙しい少年。

 何でもない普通の小屋を指して「十勝沖地震の時、そこでひとりぼっちで立ってたなあ」。

 周辺には家が建っているが、そこだけは本当に更地だった。他の家も、当時のままの家はもうないらしい。住む人も違っているだろう。祖父は三沢の米軍基地に勤めていたが、基地を離れて青森市に移り住んだ。私たち家族が現在暮らしている場所。やはり父は喜びも悲しみもない表情をしていた。

 かんぶん、というひらがなの名前のホームセンターの駐車場に車を停める。アユ釣りが得意だったという祖父がよく行ったらしい野辺地川を見る。川にかかる鳴沢橋はたしか昭和63年竣工だったか。新しいものだと感じた。

 川沿いを歩く。轟々と水の音のするほうへ。昔、石段を勢いよく流れるこの水の上をアユやヤマメが上っていったらしい。現在も放流が行われている。川を覗き込んだが何もいなかった。

 祖父はここで餌を使わずにアユを釣ったり、川に入って手掴みで捕まえていたらしい。祖父はよくアユ釣りに友人を誘ったが、祖父ばかり釣れるので友人はさぞ退屈だっただろう、と。

 焼いただけのアユは臭みがあって食べづらいので、よく天ぷらにして食べていたという。私も幼い頃に一度だけアユを食べたことがある。祖母(父の母)と新町にあるさくら野百貨店へ行ったとき、アユの塩焼きを買ってもらって食べた。どんな味だったかまるで覚えてない。

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 しばらく川を眺めて発つ。整備された堤防を下りて川に入って遊ぶ大人の姿が見えた。「あれくらいしねばまいねな」と父が言った。

 JRと青い森鉄道の乗り入れる野辺地駅周辺。『マッハGoGoGo』の絵がついたお気に入りのかばんを駅の待合室に置き忘れて電車に乗ったが、帰りに駅員さんに尋ねたら届けられていた、と。私の「ほんずなし」は父親譲りか。JR大湊線の接近放送が繰り返し聞こえる。都会的な旋律。

 再びむつはまなすラインへ出る。昔ここにデパートがあったとか、何を言ってるかわからない歯医者がいたとか。野辺地名物「いもがし」(食べたかったが断念)の老舗である佐藤製菓の角を折れ、野辺地警察署の交差点を右へ。馬門野辺地線へ出、野辺地川を越えて国道へ出る。運送の仕事をしている父が若い頃寄ったドライブインの数々は廃れ朽ち果て草木に埋もれていた。ナスと鶏肉の味噌炒めがすこぶる美味であったという「アスカ」。

 浅虫のあたりで頭文字Dみたいな走りを繰り広げる。国道を久栗坂造道線へ入る。海沿いの部落。車を停めて歩きたかったが。なんかGoogleレビューでやたら評判のいいタイヨウの前を過ぎ、川上神社へ続く長い石段を見上げ、「発破!」と思いながら採掘場のあたりを過ぎる。野内川を越えて原別、矢田前、八重田、造道。

 岡造道の交差点で国道に合流して14時頃帰宅。仏壇に供えていたのを下ろして冷やしていたピンクグレープフルーツを剥いて食べた。

 18時半過ぎ、浪岡の大谷翔平ことほしさんを見送る。アイス買い与えたがり。

 夜は焼いたズッキーニ、ホワイトショコラ(白いとうもろこし)、枝豆、昨日の残りのきくらげと卵と豚肉の炒め物。母がえびと玉ねぎの天ぷらを揚げてくれた。

 20時頃雨が強まる。鯵ヶ沢や深浦に警報が出される。戦が無ければ戦後も無いというのは虚しいが。自分も歴史と地続きであると思いたい。切実さをもって愉快に暮らしたいな。もっとよくなれると思う。はじまりの感じ。みんな生きていた。