生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)

昨日眠る前に書いた文章

 

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 誠実という言葉を信条に掲げてはいるものの、他人が吐いた煙のようにそれは、ぼんやりとして明快なまでに不快なのだ

 しかし自分は言ってしまったからな

 (坂道を転げ落ちるいくつものりんごは赤かったり赤くなかったりする)

 善人として生きてゆくことの決意は根深い だからこそ悪の発達、変異した花は愉快だね 白い花がうつくしいのはほとんど奇跡なのだ

 灰皿のふちを思い出した 銀色の いますこし、過去に戻りたくなっている

デッド・オア・アライブ・オア・ドライブ

 

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 わたしの、生きることそのものに対する気概というのは、並大抵のものではない。よりよく生きようと努めることを理知というのであり、すなわちそれこそが人間らしさであるということに、気がついたのだ。しかしこのところ、どうも気にかかることがひとつある。車の運転である。

 

 昨年、わたしは車の運転免許を手に入れた。

 わたしは、高校を卒業したあと関東のほうに就職することが決まっていたので、放課後せっせと教習所に通う同級生たちの姿を見やっては、「ふっ、田舎者め…」と馬鹿にしていたのであるが、半年経たないうちに、しれっと地元に戻ってきた。

 地元で再就職するためにはやはり免許が必要ということになった。気がつくとわたしは身一つで山形県へと乗り込んでいて、二週間にわたる壮絶な合宿の末に免許(AT限定)を取得した。

 しかし残念なことにわたしは、運転の技術にまつわる一切の記憶を失っている。あるのは、教官のおじさんたちとの和やかな思い出だけだ。さらには、「パン屋」という、まったく車を運転する必要のない仕事に就いてしまったために、卒業検定以来、わたしは一度も車を運転していない。

 

 そんな免許証の写真のわたしは表情がたるんでいる。

 こうしている間にも、世界のどこかでは絶えず争いが巻き起こっている。この争いの意味とはいったい何なのか、そんなことを考える隙も与えられないまま、罪の無い子供達が、今、前線に立たされている。命を懸けた戦いというものは、たしかにある。しかしそれは決して、他人の命を侵すものであってはいけない。自らを懸けて戦うべき相手とは、常に自分自身でなければいけない—。

 

 そういったことをまるで考えていない間抜けな一瞬間を、この写真は見事に切り取っている(表情とは生まれつきのものではなく、人生という途方もない過程の中で獲得していくことのできる、ある種の希望であるはずなのだが)。

 爽やかなブルーの背景が、どこか遠くの戦場の上にも広がる青空のように思えてきて、わたしはなんだか悲しくなった。

 

 さて、車を運転しないという道の先で、わたしを待ち受けているものとはいったい何だろうか。それは、ゴールド免許である。

 ゴールド免許とは、五年間無事故無違反を続けたあとで免許を更新すると交付されるようである。丸一年もの間、わたしは運転をしなかったのだから、今後五年間運転をしない可能性というのは大いにある。そうすればわたしもいずれは無事故無違反をたたえられ、「優良運転者」として社会から認められることとなるだろう。一見すると、光栄なことのようである。

 

 しかしわたしは、それがつらいのだ。社会をあざむいて、優秀なドライバーのふりをしているのがつらいのだ。みなさん、ちがうのです。わたしは、そんな立派な人間ではないのです。

 

 わたしは、適性検査において、虚飾性の高さを指摘された人間である。機械ごときに、わたしという人間の本質を見抜かれてしまったのだ。

 わたしは、ひどく恥ずかしい思いがしてすぐに用紙を伏せたのだが、この結果を隠そうとすることこそがどうしようもない虚勢なのだと気がつき、ふたたび赤面した。そのときわたしは、もう二度と自分を偽ることはしないと、こころに誓ったのだ。

 

 だからせめて一度くらいは事故を起こさなければならないと思っている。力強くハンドルを握り、暴走し、激突する。

 わたしは命を懸けて、「わたしは安全ではありません」と証明してみせる必要がある。ありのままに運転をし、ありのままに事故る。そうして、ありのままのわたしを受け入れてもらおうと思うのだ。そのとき社会はきっとこう言うだろう。「煉、君はとんでもない正直者だ」と。

 車から身を投げ出されたわたしは、清々しい笑みを浮かべながら天を仰ぐ。そして感じるのだ。ああ潔癖の身の、なんと美しいこと!

 傷だらけのわたしは、青空を見上げながらある言葉を思い出す。自らを懸けて戦うべき相手とは、常に自分自身でなければいけない—。

 いけない。このあまりにも無意味な自意識の戦線にわたし以外を巻き込むことなど……

 

  いやいや。こんなのを何日もかけて真面目に書いてきたけどこれもぜんぶ虚飾だ。そもそも故意であり事故ではないから捕まる。警察から動機を尋ねられたらどうしよう。「自分の精神の向上のためだ。」などと格好をつけても通用するとは思えないから、適当な嘘をつくのだろう。げすだ。それに、よりよく生きるためにその命を放棄するなど、本末転倒もはなはだしい。いったい何がしたいのか。

 

 あらゆる角度から見た死から遠回りの道を辿るには、自分の足でアクセルを踏むべきか、それとも車から降りて自らの足で歩くべきか。平和の鐘は、今どこで鳴っているのか—。などと結んでみたかったのだが。

 わたしは、免許を更新しないだろう。

 

(2019年)

激情

 

 もう遅い。さまざまのことが、手遅れだ。

 それは、鏡の中に残っていないほうの歯や、すっかり昇ってしまった太陽や、囀りやまない鳥の声など、あらゆるものが、取り返しのつかないようすである。

 

 わたしは、何かを書こうとして筆をとったわけだけれど、何を書くかについては決めていない。すでに書き始めてしまったにも関わらず、だ。今朝、誤ったやり方でアイスコーヒーを淹れた話でもしようか、それとも、いや、もう思い浮かぶことがない。
 ちなみに、そのアイスコーヒーは限りなく水に近い味がしたのであるが、謙虚さの中に「己はあくまでもコーヒーである」といった激しい主張を感じて、そういう際どさがなかなかに爽快であり、ふむ、こいつは夏の飲み物であると思わせてくれる逸品であった。
 こんな話がしたかったような気もするのだが、こんな話はいったんやめにしよう。なぜなら、やめにしたいからである。この一連を書くことの動機について書くことはますますやめにしたいところだ。
 
 わたしには自分の部屋というものがあるが、自分だけの玄関というものは持っていない。簡潔に言うならば、わたしは実家暮らしであるというだけのことに過ぎないのだが、そんな済まされ方をされるとわたしの気持ちは穏やかではない。非常に空が晴れている。陽射しは過剰であり穏やかではない。わたしの気持ちというのもまさにそういう性質のものだ。
 
 嘘をついた人間は謝るべきである、というようなことを書いたのだが消した。ここ数日、世間を騒がせているような話についてではない。もっと小さく役に立たない話だ。役に立たない話を好む人間がいる限り、本当に役に立たない話というものは永遠に死に続ける。おかしな言い方だが気に入った。永遠に死に続ける。そういう生き方があるかもしれない。あるいは、本当でなくてもよいかもしれない。
 人間、誠実さというのさ生まれつき備わっているものであるが、生まれた後、さてこれから生きていくぞとなると、その道中どこかで落っことしたり、誠実強盗に奪われたりしていくものだ。誠実でない人間は一見するとよくないけれども、どうして玉を失くしたのかを考えると、その人間だけを悪にして語れるような単調な問題ではない。そして、誠実というのが本当であるということはない。(ああ、なんだかこういうことを言っているのは本当に気分がいい。)
 
 わたしはトイレにまで思案を持ち込むぞ。便通は滞っているが、楽しい人間である。
 
 しばらくぼうっとしてしまった。その後言うことがなくなってしまった。便通が滞っているのは事実であるが、楽しい人間であるというのは虚偽の記載であった可能性がある。ああ、何ともはや。じゃあこれは何。ここまでの楽しい時間は、いったい何だったというのだ。
 
 今、家の電話が鳴った。楽しくなってきたところだったのに!しかしまあ、鳴ってしまったので筆を置き、電話の前に立ったのであるが、着信音の向こうに「あう、もしもし」といった男の声がしたのであんまり気味悪く、受話器を取ることができなかった。わたしがこの電話を取らなかったことで、向こう側の男が死んだかもしれない。すべて幻の話だ。しかしわたしは実在している。筆の先で弄ぶようにしてマーブル模様がつくられる様を想像していただきたい。あのような狭間とか揺らぎとかの中で、幻に操られながら生きている者もいるのだ。彼らもまた実在しているのであるが、その意識というのはその身に及んでいない。わたしはわたしを幸福に思う。極めて嫌なやり方で。
 
 陽の射す角度がだいぶ変わってきた。もの思いは尽きない。感受性が豊かだの、文学的だのと言われることがたまにあるのだけれど、そういうときはとても馬鹿にされているような気持ちになって、しかし実際に鼻の穴を広げると倫理も見た目もよくないので、こころの中にも鼻をつくった次第である。人の見えないところで「フンヌー」と鼻の穴を広げ、のびのび憤怒をやっている。いや、実際のところ、それほど怒ってはいない。怒ると散らかした自我の後始末が面倒だ。わたしはただこの話をここに書きたかった、書いてみたかったに過ぎない。フンヌー。
 
 漠然と、楽しく生きていたいということが浮かぶ。これといった目的もなく、ふらふらっとしていて、激しい波に自ら乗りかかるということを選ばない。しかし迷いは摩擦と同じくして生じる。判断を下すのにはいつだって早過ぎるというような気持ちになる。わたしはまだ苦悩を知らない。苦悩するのがよいともわからない。苦悩が美学に直結するのはつまらない。賢さはあったほうがよい。賢さを持て余して、ただの飾りにしているくらいならば初めから持たないほうが潔い。つまりは、全てというものは無い。さまざまが、さまざまの分量であるから美味い飯が出来上がる。
 そうはいっても、クレーンゲームに二千円をたやすく(いや、葛藤はした)費やすことのできる日々を思えば、このこころは弦かと思うほど震えて満足の音を立ててしまう。諦めない、諦めない。上を向いて歩くよう促され、賛同してしまったからには上を向いて歩くのだ。まだある、まだあるぞ。先がある。なんと楽しい道か。楽しいというのは、あれだな。語るのは具合が悪い。あれというのは、わかるかい?
 
 初めにわたしは手遅れだ、と申したようだけれど、今となっては何のことだかわからない。やはり手遅れだ。ああ楽しい。楽しいと口にするよりほかない。雨が降って楽しい。外に干していたバスタオルが濡れた。窓を開けていたから部屋も濡れるわ濡れる。楽しい。晴れ空は雨雲に食い潰された。その一部始終。
 これが切符か。いつ終わってもいいような明るい喪失のために在り続けるのだ。
 
(2019年)

 

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ボロいプラネタリウムの近くに住みたかった

 ボロいプラネタリウムは学区の外にあったのだけれど、わたしたちは、わたしたちだけでそこへ行くことを、さまざまなものにゆるされていた。
 ガラス越しに、わたしたちの住むちいさな町の、さらにちいさなジオラマがあって、「おうし座」とか「ふたご座」とかが書かれたボタンを押すと、星座が光るしくみになっている、あの展示のことをわたしたちは好きだった。しかし、「おひつじ座」だけは何度ボタンを押したって光らなかった。だから、唯一光らない、ひらがなの「へ」みたいな形のあれが「おひつじ座」なのだということを、わたしたちはよく知っていた。わたしたちが生まれる前、それは光っていたかもしれない。

 ボロいプラネタリウムは、市民館の4階にあった。それは、なかなか大変なことだった。エレベーターという、赤い扉の、箱のかたちをした乗り物もあったのだけれど、わたしたちは階段をのぼりたがった。わたしたちが箱の中に詰まって、宇宙のあるほうへ上昇してゆくのは、むしろ自然なことのはずだったのに。階段をのぼるその途中に、年じゅう、空襲の写真が展示してある部屋があった。はじめて市民館へやってきたとき、わたしたちはそこへ入って、燃えている町や燃えたあとの町の、色のない写真を見た。色がなくても、燃えているとわかった。密度の高い文字はまだ、読めなかった。あれから、だれも、一度も、あの部屋には入っていないと、思う。
 踊り場の窓には、折り紙で作った星が貼ってある。4階の「プラネタリウム」の看板が見えるまでは決して止まらずに、わたしたちは階段をのぼりつづける。宇宙が、近づいてくる。ちがう。宇宙に、わたしたちが近づいてゆく。

 宇宙のすこしの部分が燃えている写真に、わたしたちは釘付けになった。わたしたちは、うつくしいものをうつくしいと言うことに、この頃から抵抗があった。うつくしいと言いたいとき、わたしたちは決まって「きれい」と言った。きわめてふざけた感じで「きれい」と言って、わたしたちは「きれい」しか言えなくなってしまった。ここへ来るたび、あたらしい言葉を獲得したいと、わたしたちは思っていた。あまりにも遠いところで燃えているから、あの光は「きれい」なのだと、わたしたちは知っていた。だれも、「きれい」以外は言わなかった。わかっておくべきことのすべて、それが何であるか、わたしたちは、わかっていたつもりだった。だまって、それでも、わたしたちはわかりあっていた。

 16時に、重い扉をお姉さんに開けてもらう。「立入禁止」の看板は「たちいりきんし」と読み、「なかへはいってはいけません」のことだと、お姉さんが教えてくれた。おおきな、名前は知らない、あの機械を囲むようにしてある椅子、椅子、椅子、椅子、椅子、がいくつあるかを、わたしたちは数えたことはなかったけれど、わたしたちはすべての椅子に座った。東の空、西の空、南の空、北の空、あの星、星、星、星、星はぜんぶちがう星で、いくつあるかなんて、わたしたちには数えられるはずもなかった。「わあー、と言ってみても、星はよろこんだりしないから、いいね」と言ったのはだれだったか、わたしたちはだれも、覚えていない。だれが、それよりもだいじなことを、わたしたちはまだ、知らなかった。お姉さんはいつも、伏し目がちだった。「まつげの下に、星を隠しているの?」とだれかが言って、お姉さんは「名前がない星も、あるんだよね」と言った。

 にせものの星のほうを、わたしたちは好きだった。わたしたちは、無意識のうちに行われている学習という行為を好きだった。その時間ごと好きだった。階段をかけおりて、市民館を出て、17時のチャイムが鳴って、にぎった自転車のハンドルがつめたくなっているのが好きだった。

 ボロいプラネタリウムが遠くなってゆく。光をうつくしいと言う、その退屈のこと。光を追って、もっと遠くへ行った人のこと。壊れたおひつじ座のこと。生まれた日に、星が与えられること。その運命を、信じている人のこと。お姉さんが隠している、名前のない星のこと。それでも燃えている、炎の粒のこと。燃えかすから再生した町のこと。重力の絶対性を、結露した窓の折り紙は懸命に否定しようとして、ほほえんでいた。まだある、この先のこと。

 わたしたち、今は何に憧れていますか?

 

(2018年)

ノイズが透明

 

 「彼女は湖面が揺れるように笑う。風が吹くのを待って、吹く風のとおりに笑うのだ。」

 

 血が本当の赤色をしているのはほんの一瞬であり、わたしの内から外へ流れ出たとたんにゆっくり色を失っていく。それは桜と似ている。開花、ある一瞬を過ぎた花たちは、ゆっくり死んでいる。わたしたちは、ゆっくり死んでいる花を見上げている。わたしたちの体内には血が走っている。わたしたちは生きている。生死の衝突が春

 「影には興味がない」といった感じで人は歩く。歩けば歩いたぶんだけ、踏まれた影の数と同じだけ花びらが散る。着地するとごみ。影にもし神経が通っていたのなら、もう少し優しくなれたかもしれない生物。意図しない喜びのことを幸運っていうのか。空が見えない、見上げた先にないと不安になるものは空

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  「この人、アート系なんですよ」

 フラッシュバックが退屈、あまりにも退屈じゃないか、そんなのは

 

 瞬間、瞬間に事の真理が存在していたらいいのに、と思ってそういうことにしている。その一瞬を握るためにしか生きていたくない。静止画に虚偽のピースサイン 

 

 「快方に向かわない疾患を抱えています。」

 転覆した舟、泡は球体だった、逆さまに映る君、君って誰?

 

 「レス数が1000近いです もうすぐ書けなくなります」

 爪を噛む癖。かわいそうな大人、かわいそうな大人、かわいそうな大人だけが匿名を希望している

 

 声をかけたのに、聞こえないふり、聞いていないふり、そのどちらかもわからない背中、どうせならとその背に向かって泣いたさ。わんわん、は犬の鳴き真似

 

 放課後の机の中に文庫本、その栞が巻き戻るようなって言ったって平行移動、走っても走っても前に進まない夢の続きを紙の上でしよう、どうせフィクションだろ、終わりなんて目に見えているじゃないか、という人がこわい。とどまっていてほしいものはたいてい流れる、わたしは川だからずっとはここにいられない

 

 今日、知らない人の誕生日だった。わたしが興味あるのは、真上から撮られた写真より真上から写真を撮った人間のことだよ、しゃがんでいるやわらかいスカートの中で叫びたい気持ちの連続した時間、最後に泣いたのはいつですか?わたしは覚えていませんね ないがしろ、どちらにせよ、二度と降りない駅の最寄りに住んでいるのが君と君と君と君とその他大勢、口紅を最後まで使い切るように難しい人生に泉が湧いているだけでありがたい

 月の近くに光る金星が口元のほくろに似ているのであの月は唇だ、そう思って口紅を取り出すがまあ届かない

 

 ノイズが透明、記憶の方が記録より残酷、スキップの類いのうつくしい言葉がガラス片、それは例えば海辺のあーだこーだ、靴を逆さまにしたらすべて風となった砂にわたしたちはこわくなって手をつないだのでした、触ったところから砂になるならまずは指からさようならだからな、だから指輪が嫌いでひとつもほしくないと思ったんだ。ピリオドを打つたびに後悔していませんか、明日の予報は雨だけれど心の準備はできていますか、煙草を吸う夢でわたしは煙草を吸いたくなったがまあしかし息継ぎが器用にできないもんで

 

 謝りたい日のエスカレーターは歪んでいて右足、それとも左足とかを考えているうちに謝りたい日が終わる

 深い山のラブホテルへ左折する軽自動車 

 これは、たったひとりに愛されて満足できるような人生ではない

 

(2018年)

吐く息の白さで、その人が笑っているのだとわかる

 

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 雪が、降りました。季節って順繰りしっかりめぐるのだなと、もういい大人なんだけど、あらためて思います。暖かくできるので、冬はいいですね。

 雪が降る前の晩じゅう、強い風が吹いていました。それで、いちょう並木の葉は、すっかり落ちてしまいました。金色に光り、たくましく見えていた木は、その細い枝をむき出しにしてしまったんです。それって一体、どんな気持ちなんでしょうか…。自分には到底耐えられそうもないけれど、もしも木に思考ができるなら、それはそれは強靭な精神をもつだろうと自分は思います。けれどこれも、ないものねだりの一種なのでしょうね。思考する生き物はきっとみな弱いのです。だからこそ強さを志すことができるのだし、自分は弱くてよかったと思います。語弊があるといけないですね。自分は木をばかにしているんじゃないですよ。いつも尊敬をもって見上げているのですから。こんな自分の傲慢さも、木はすべて見透かしているのでしょう。非常にありがたいことです。

 それで、いちょうの葉なのですけれど、すべて地に落ちてしまったわけではなくて、いくつかは、その焼け残った骨のような枝をつかんでいたんです。雨とも雪ともいえないような、濡れている球体のようなものがとめどなく空から落ちてきて、自分はそれがいやでした。けれども水の粒で飾られた木に西日が当たって、それだけはきれいだった。花はたやすく死ぬけれど、一本の木の死ぬのを見届けられるほど、我々は長くは走れないでしょう。自分はいまも胸が落ち着きません。ですが、花も木も人間も、等しい時間の流れを生きています。何もかもを信じないことです。ただ。ただひとりを決めて、自分の心臓を握りしめてほしい、それだけを切に望みます。

同期する唇

 

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 葬儀屋の陰から黒猫がつとつと…っとあるいてきて、それでも自分はいっさい、不吉であるなどと思わなかった。と、こんなのは、ばかな頭の遠まわりだ。自分は黒猫のすがたを見たのではない。不吉であるというたしかな印象を見たのだ。おろかな、知覚の時差にすぎない。おどろきのあまり小便をもらしたという嘘もこの際必要がない。

 運転席で力なく眠るタクシー運転手を殴ってみたい。衝動を許さないのが常に自分以外である自分が情けない。そしてその運転手は眠ってなどいない。

 態度の悪さを指摘されている。消去法で選択したそれに。

 生きながら地獄を味わい、天国を夢見るならば、死後には第三の。

 語らずに語る方法を、沈黙せずに沈黙する方法を、それぞれ模索している。語れば語りは嘘になり、沈黙すれば沈黙が真実になる。しかしそうではない、現実は。数回の頷きの中から選りわけることができるだろうか?自分は器用な人間を愛すことができない。

 今夜もまた眠らなければならない。自分は孤独を感じない。そういうふうに出来ている。そうではない。いつからか、それはいつでもよい。自分以外の人間が自分の孤独を生み出す。寂しくはない。ただこの感情の名を知らないだけだ。

 木と木の影がある。自分は影ばかり見ていた。これは自分が自分以外から愛されるときの覚悟に等しい。それは川のように流れるから—はじめて寂しいと思えた日のこと—今では憶い出すことができない。