生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

料理のさしすせそ

 

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 「料理のさしすせそ」について、セイカクに、あなたは答えられるでしょうか?

 

 「さ」は砂糖、「し」は塩、「す」は酢…… と続きますが、これは、料理に欠かせない調味料の名を、表すだけものではありません。料理をつくるときの、調味料を入れる順番をも、表しているのです。つまり、味付けの際は、砂糖から入れていくとよい、ということです。たとえば砂糖には、味が染み込みにくい、塩気の強いもののあとでは甘味がつきにくい、などの理由があるそうです。私はよく、土井義晴せんせーのレシピでひじきを煮ますが、たしかに、まずは砂糖を入れてから煮ていきます。

 さて。さ、し、す……とここまで順調にやってきました。しかし、「せ」の調味料とは、何かしら? 考えてみましたが、思い浮かびもしない。でも、大丈夫。これは、誰もが滑落する人生の崖にあたる問題ですから、答えられなくても気にすることはないのです。そして、こんなものは、大したことのない崖です。

 なぜなら、答えは「せうゆ」だからです。皆さまお察しのとおり、これは「しょうゆ」を指します。このことから、「料理のさしすせそ」が、「せうゆ」の頃から現在まで受け継がれる、優れた教えであるということがわかります。

 わたしは、このことをはじめて知ったとき、ヒューと崖から落ちる夢から、パチッと目覚めるような感じがしました。なんだ、夢か、というふうに、なんだ、「せうゆ」か、といった気持ちがしたのです。

 崖から落ちる夢をよく見るからか、「せうゆ」のことも、よく覚えていました。

 きのう、パン屋で店長さんに、例の「せ」について聞かれたんです。パン職人のおねえさんは、答えられませんでした。問いかけられたわたしは、いかにも得意げに、さらっと答えてみせました。「しょうゆ」と。しかし、そのときわたしは、気がついたのです。

 「そ」を、知らない……。

 わたしはこれを、「せの慢心」と名付けました。「せ」の先があることをすっかり忘れて、「せ」にいつまでも浸っているのです。わたしは、目の前の崖にとらわれがちです。そして落ちてみて、大したことないなあ、と思いながら、わたしはいつまでも「せ」の海に浮かんでいるのです。「せ」の中の蛙は「料理のさしすせそ」という大海を、知ってはいないのです。

 ……パン屋での会話に戻りますね。わたしはそのあと、つまり「そ」については、追及されることはありませんでした。「せ」がわかるのだから「そ」も知っていると、思われたのでしょうか。だけど、わたしの心にはずっと、引っかかるものがありました。くりかえして言いますが、わたしは「そ」が何なのか、わからないんです。店長さんやおねえさんは、わたしのことを「『料理のさしすせそ』の全知全能の神」と思っているかもしれない…… そう思うと、だんだんつらくなってきた。「せ」の海に浮かんでいる自分の姿が、ありありと目に浮かびます。

 たまらずわたしは、おねえさんのところへ駆け寄り、尋ねました。

 「『料理のさしすせそ』の『そ』って、なんですか?」

 そのとき、おねえさんは、生地にあんこを包んでいる最中でした。あんこを包むのは容易ではありません。体じゅうに張り巡らされてる神経を、銀色に輝くたった一本のヘラに、集中させなければならないのですから。しかしおねえさんは、手を止めて教えてくれました。

 「わたしもわからなかったんだけど、『みそ』らしいよ。『ソース』だと思ったよね!」

 

 アー、船が進んでいきます、未知なるほうへ、進んでいきます、新しい海が、新しい海が、わたしにも見えてきました、船が海を裂いていくでしょう、ひらかれた海の傷口から、虫のように湧いて出るあの白い泡を、希望に似ていると、思ったことはありませんか……

 

 ザザーン、ザザーンと、岸に打ちつける波の音がしてきて、わたしは「せ」の海から「料理のさしすせそ」の浜辺に打ち上げられたような思いがしました。あるひとつの海を、ひととおり泳ぎきったのだという心地です。さっきまで泳いでいた海を眺めつつ、潮風にあたっていると、ふと、ある疑念が浮かびます。海は塩の味なのか、それとも塩が、海の味なのか……。

 気がつくとわたしはふたたび、いいえ、新たなる大海へと、放り出されているのでした。