生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

激情

 

 もう遅い。さまざまのことが、手遅れだ。

 それは、鏡の中に残っていないほうの歯や、すっかり昇ってしまった太陽や、囀りやまない鳥の声など、あらゆるものが、取り返しのつかないようすである。

 

 わたしは、何かを書こうとして筆をとったわけだけれど、何を書くかについては決めていない。すでに書き始めてしまったにも関わらず、だ。今朝、誤ったやり方でアイスコーヒーを淹れた話でもしようか、それとも、いや、もう思い浮かぶことがない。
 ちなみに、そのアイスコーヒーは限りなく水に近い味がしたのであるが、謙虚さの中に「己はあくまでもコーヒーである」といった激しい主張を感じて、そういう際どさがなかなかに爽快であり、ふむ、こいつは夏の飲み物であると思わせてくれる逸品であった。
 こんな話がしたかったような気もするのだが、こんな話はいったんやめにしよう。なぜなら、やめにしたいからである。この一連を書くことの動機について書くことはますますやめにしたいところだ。
 
 わたしには自分の部屋というものがあるが、自分だけの玄関というものは持っていない。簡潔に言うならば、わたしは実家暮らしであるというだけのことに過ぎないのだが、そんな済まされ方をされるとわたしの気持ちは穏やかではない。非常に空が晴れている。陽射しは過剰であり穏やかではない。わたしの気持ちというのもまさにそういう性質のものだ。
 
 嘘をついた人間は謝るべきである、というようなことを書いたのだが消した。ここ数日、世間を騒がせているような話についてではない。もっと小さく役に立たない話だ。役に立たない話を好む人間がいる限り、本当に役に立たない話というものは永遠に死に続ける。おかしな言い方だが気に入った。永遠に死に続ける。そういう生き方があるかもしれない。あるいは、本当でなくてもよいかもしれない。
 人間、誠実さというのさ生まれつき備わっているものであるが、生まれた後、さてこれから生きていくぞとなると、その道中どこかで落っことしたり、誠実強盗に奪われたりしていくものだ。誠実でない人間は一見するとよくないけれども、どうして玉を失くしたのかを考えると、その人間だけを悪にして語れるような単調な問題ではない。そして、誠実というのが本当であるということはない。(ああ、なんだかこういうことを言っているのは本当に気分がいい。)
 
 わたしはトイレにまで思案を持ち込むぞ。便通は滞っているが、楽しい人間である。
 
 しばらくぼうっとしてしまった。その後言うことがなくなってしまった。便通が滞っているのは事実であるが、楽しい人間であるというのは虚偽の記載であった可能性がある。ああ、何ともはや。じゃあこれは何。ここまでの楽しい時間は、いったい何だったというのだ。
 
 今、家の電話が鳴った。楽しくなってきたところだったのに!しかしまあ、鳴ってしまったので筆を置き、電話の前に立ったのであるが、着信音の向こうに「あう、もしもし」といった男の声がしたのであんまり気味悪く、受話器を取ることができなかった。わたしがこの電話を取らなかったことで、向こう側の男が死んだかもしれない。すべて幻の話だ。しかしわたしは実在している。筆の先で弄ぶようにしてマーブル模様がつくられる様を想像していただきたい。あのような狭間とか揺らぎとかの中で、幻に操られながら生きている者もいるのだ。彼らもまた実在しているのであるが、その意識というのはその身に及んでいない。わたしはわたしを幸福に思う。極めて嫌なやり方で。
 
 陽の射す角度がだいぶ変わってきた。もの思いは尽きない。感受性が豊かだの、文学的だのと言われることがたまにあるのだけれど、そういうときはとても馬鹿にされているような気持ちになって、しかし実際に鼻の穴を広げると倫理も見た目もよくないので、こころの中にも鼻をつくった次第である。人の見えないところで「フンヌー」と鼻の穴を広げ、のびのび憤怒をやっている。いや、実際のところ、それほど怒ってはいない。怒ると散らかした自我の後始末が面倒だ。わたしはただこの話をここに書きたかった、書いてみたかったに過ぎない。フンヌー。
 
 漠然と、楽しく生きていたいということが浮かぶ。これといった目的もなく、ふらふらっとしていて、激しい波に自ら乗りかかるということを選ばない。しかし迷いは摩擦と同じくして生じる。判断を下すのにはいつだって早過ぎるというような気持ちになる。わたしはまだ苦悩を知らない。苦悩するのがよいともわからない。苦悩が美学に直結するのはつまらない。賢さはあったほうがよい。賢さを持て余して、ただの飾りにしているくらいならば初めから持たないほうが潔い。つまりは、全てというものは無い。さまざまが、さまざまの分量であるから美味い飯が出来上がる。
 そうはいっても、クレーンゲームに二千円をたやすく(いや、葛藤はした)費やすことのできる日々を思えば、このこころは弦かと思うほど震えて満足の音を立ててしまう。諦めない、諦めない。上を向いて歩くよう促され、賛同してしまったからには上を向いて歩くのだ。まだある、まだあるぞ。先がある。なんと楽しい道か。楽しいというのは、あれだな。語るのは具合が悪い。あれというのは、わかるかい?
 
 初めにわたしは手遅れだ、と申したようだけれど、今となっては何のことだかわからない。やはり手遅れだ。ああ楽しい。楽しいと口にするよりほかない。雨が降って楽しい。外に干していたバスタオルが濡れた。窓を開けていたから部屋も濡れるわ濡れる。楽しい。晴れ空は雨雲に食い潰された。その一部始終。
 これが切符か。いつ終わってもいいような明るい喪失のために在り続けるのだ。
 
(2019年)

 

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