生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

9月19日

 

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 『日記というものは本来他人に見せるべきではないということを忘れるな』という野暮ったいが真理に迫っているような気もしないでもないタイトルで日記をインターネット上に公開していた。結局はやはり人に見せるものではないと悟って閉鎖したのだけれど日記あるいは心情といった表向きではないものを公開する癖は今日になっても抜けない。▷最近では自分の自閉的な部分を他人の目でもって見ているような感覚を得る。またこれまで私は幻聴に悩まされたという経験はないがそもそも自覚していたのならそれは幻聴ではない。自分の思念が実際に(実際ではないのだが)像を結んだり音や声となって自分の鼓膜に向かってくるということはあって不思議でないと思うようになった。▷私は常に閉じている人間だ。書き癖は孤独の噴出だろうか。そんな大したものではないがそれにしても私は孤独への感度が薄い。寂しいという感情を持ち合わせてはいるかもしれない。ただそれが他人との関わりによって慰められるような性質のものであるとは考えない。慣れではないはずだ。理解は同意を意味する言葉ではない。私はそばにいてくれる友人らに感謝している。▷やはり苦悩はすすんですべき種類のものではない。三日前ノートを買った。今度こそは人に見せまいと紙の上に日記を書きはじめたのだ。これは続けることが目的であって読み物としての面白さを目指すものではない。ただ自分は自分の書くものの面白さに期待してしまっていた。三日書いて三日とも恥ずかしい思いをした。自分しか見ていないということがこんなにも恥ずかしいのである。自意識の強大さに打ちのめされた。閉鎖された空間であれば正直な言葉を綴ることができるだろうとのもくろみは誤りだった。虚飾された言葉の行き先がない。他人の目あるいは心に触れて発散しない。私は耐えられそうにない。▷書くことに迫られているような気がしていたが実際はこちらから一方的にしかも非常識的に距離を詰めているに過ぎない。書くという行為は誰をも歓迎などしていないはずだ。しかし「自分は書くという行為から必要とされているのだ」という激しい思い込みを侮ることは私にはできない。私は幻を肯定する立場にある。▷来年の10月で志賀直哉の死から50年が経つという。50年前などつい最近のことではなかったか。生きてみた経験はないが。50年という時間はおそらく早々と過ぎるだろう。▷以上に述べた思案が明日の朝には逆転していたとしても何らおかしくはない。