生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

Apathy(無感動)への抵抗

 

 1.Apathy(無感動)への抵抗

 

 人生に目的は必要だ、無目的な人生に真実の喜びは無い

 そもそも、そのような「真実」が人生の内に存在するのか疑わしいところではあるが、しかし、虚偽でしかない生を、世を、私は生きていたくはないので、私の内に塔を建てる、そのような心意気で、追求したい私の人生の喜びについて、綴ることにした。

 私の人生にもっとも必要なもの、それは、感動である。誤解を生まないために、感情と言い換えるべきかもしれないが、「無感動」の対になる語として、このように記しておく。

 まず、私は、発生した感情の全てを尊重する。喜びはもちろんのこと、たとえ、怒りや哀しみであっても。怒るべきときには怒り、哀しむべきときには哀しむ、この自然に抗うと、いつか全ての感情を損なうことになる。これが私のもっとも恐れる状態であり、そしてこれは、生きている人間であれば、誰にでも起こり得るのだ。

 だから私は、この Apathy(無感動)への抵抗こそが、今日の私の生きる目的に値すると思って生きている。なぜ無感動を嫌うか。それは、無感動によって支配される人生の長さを思えば明らかである。

 結局のところ、私はこの人生を早く閉じたいと考えていることを、私は私自身に対してまずは明らかにしておく必要がある。人生の冗長に耐えることができない。私は私のこの性質を覆したい。生きるという方法によって。

 そう、前提として、私は、こうして考える頭を有しているうちは、自ら命を絶つような真似はしない。つまり、熟考と思われる思案の果てに辿り着いたものが自死なのだとしたら、それはまだ熟考に至っていないということである。これが、今日における私の持つ唯一の絶対である。

 考える人間は、自死を選ばないことができる。自らの意思を失って初めて、人間は窓から飛び降りる。だから、自死という言葉もその仕組みから考えれば本質的とはいえず、成り立たぬものと私は考える。

 冗長の人生から脱するために、魂を磨いている。研ぎ澄まされた精神をもって、よりよい人生を歩もうとするとき、その命は青い彗星のように落下し、地上から空を見上げる人々にとっては、光として映ることだろう。しかしその人生は紛れもなく終わりに向かって加速している。私の求める「よりよい生」が、実は、人生への諦念から派生したものであることは、断っておかなければならないような気がしている。しかし、私が恐れるものはやはり無感動であり、それは、一切が停止した状態である。私は光になりたいのではない。ただ猛烈な勢いで落下したいのだ。