生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

格調と気品

 

肉蕎麦

 私の手元にある三島由紀夫の『文章読本』は単行本化されたものではなく1959年に婦人公論1月号の付録として掲載されたもので、メルカリで400円で出品されているのを見つけたが未だ買い手は見つかっていない、というような具合だった。三島由紀夫の小説は『金閣寺』と『憂国』しか読んだことがないけれど、誰かがWikipediaに書いた三島由紀夫自死にまつわる記述のほうがよっぽど印象に残っている。

 今日の昼に青森駅前の立ち喰いそば処津軽で食った肉蕎麦が、この本の「私はブルジョア的嗜好と言はれるかもしれませんが、文章の最高の目標を、格調と気品に置いてゐます。例へば、正確な文章でなくても、格調と気品がある文章を私は尊敬します。」という一節を思い出させた。例へば、正確な蕎麦でなくても、格調と気品がある蕎麦を私は尊敬します。

 いや別に、蕎麦には求めてなかった。ただ、三沢駅にあるとうてつ駅そばで食べた蕎麦も、館鼻岸壁の朝市で早朝に食べた蕎麦も、残雪が残る萱野高原の茶屋で食べた蕎麦も、例えるなら、焼け落ちてしまう肉のようなその周囲の時間のことが忘れられないのであり、骨である蕎麦の味というのはよく覚えていない。あ、肉蕎麦の肉は味の濃い牛肉を勝手に想像していたのだけど、あっさりとした豚肉で、一味をたくさんかけた出汁といっしょに食べた。雪道を歩いた帰りに食べる津軽そばで、胃の底から体を温めるのが好きだ。

 好物を聞かれたとき潔く蕎麦と答えられる人間には格調と気品が備わっているんじゃないかと思う。そしてそれはやはり紛れもなく蕎麦それ自体から香っているというのか。蕎麦というのは本当にわからない食べ物だと思う。それ故に好物である。