生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

燃えろ

 

 11月8日火曜日。

 土曜日からずっと、「燃えろ、金小っ子」であるべきか「燃えなくてもいいよね、金小っ子」であるべきかを考えているのだけど(注、金小は金沢小学校の略)、世に蔓延る画一的なメッセージに抵抗するためにはやはり「燃えろ、金小っ子」という言葉が必要なんじゃないか、と思い始めた。この違和感に自らで気がつくことの重要性を金沢小学校PTA連合会は静かに金小っ子たちに問うているのではなかろうか、と。「燃えろ、金小っ子」は逆説的に「燃えなくてもいいよね」と金小っ子たちに気づかせようとしている、青い炎のことだったのかもしれない―。

 昼、市民図書館の7階。偶然ほしさんに会った。新刊本のコーナーに横道誠の『ある大学教授の日常と非日常』(晶文社)を見つけた。コンサータストラテラ、私が欠かさず服薬しているのは太田胃散の整腸剤だけ。

 夕食の後、つっかけで外へ出る。水溜まりを踏まないように気をつけた。皆既月食を見上げながらどらやき食べたいな、と思った。

誕生日

 

 11月7日月曜日。

 18時頃勤めを終えてもぐらやへ。熊谷さん。今日はわが心の師であるJ・ミウラ・ペーさんの誕生日。三浦さんの代わりに盛岡の銘酒「赤武」を飲んだ。とてもおいしい。熊谷さんに料理の相談。赤武1合、ちくわ天(ポテサラカレー味入り)、かぶとにんじんの漬物で1,200円。大相撲十一月場所の番付を見ながら。「ひとりは寂しすぎるので」と1時間で店を出た。自転車に乗って帰宅。三浦さんは「尾瀬の雪どけ」を飲んだらしい。

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フィヨルドの恋人

 

 11月6日日曜日。

 スーパーカーの『Sunday People』を聞きながら洗濯物を干す。同じく十和田市出身の高橋弘希の小説に『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』があるが、このことを話したとき「べつに関係ないでしょ」と一蹴されたときの雲ひとつない空。

 今朝、テレビで宮下草薙がペルーのロモ・サルタードという料理を食べているのを見た。牛肉とパプリカとじゃがいもを醤油を使った調味料で炒めたやつ。「炎の香りがする」。

 トマト缶とニンニクを使ってパスタを作って食べたがあまりおいしいと思わなかった。

 Netflixで『水曜どうでしょうプレミア ヨーロッパ・リベンジ』を見終え、全国高校サッカー青森県大会決勝の中継を見る。

 両親と買い物へ出る。青森山田の選手を乗せたバスとすれ違った。大野のユニバースで黒ラベルの東北ホップ100%の缶が売られているのを見つけて買う。台所でArlo Parksの『Collapsed in Sunbeams』を聞く。弟が大学からカメムシ2匹を連れ帰ってきた。部屋があまりに寒くパソコンが動作しない。部屋を暖めるための何かしらを買おうと調べていたが、体育館に置いてあった大砲のようなヒーターばかり検索してしまう。

 極端に太っているわけではないが決して痩せているわけではない自分の容姿を醜いと感じて、同時に救いようのない価値観だとも思う。ノルウェーフィンランドの国境で夢から醒めたように青森市十和田市の境あたりで。

考えられた意味の空洞、感じることのできなかった意味の構造

 

 11月5日土曜日。

 ひたすら写実的であるべきなんだと思う。すぐスマイルするべきだ。そう思う。冬、私が履く長靴には馬の顔が3つ並んでいる。ワークマンプラス青森三内店で買った。粘土を盛るように生きるのではなくて、塊を削るように生きていたいと、これからも思っていたい。平和を願って嫌われる人がいるのだとしたら悲しい。日の光が尖った鉛筆の芯みたいだな、とは感じていた。もしも死んでしまえば抱きしめる力は一切無くなるんだ、と思った。

真を偽から区別する

 

 11月4日金曜日。

 かのデカルトは『方法序説』に書いている。「私は私の行為において明晰に見、この人生において確実に歩むために、真を偽から区別する」

 先月受けた健康診断の結果が届いた。私はこの日に向けて節制を心がけぬよう努めた。私は私の行為において明晰に見、この人生において確実に歩むために、真を偽から区別する、その心意気で。普段通りの食事と飲酒を続けることによって示される数値こそが真である。結果、私は偽ることなどせずとも健康であることが明らかとなった。帰宅し、特定保健用食品ことグリーンラベルを飲む。

旅行者と生活者

 

 11月3日木曜日。文化の日

 久しぶりの休日に豪華な朝食。卵とパンとコーヒー。冷たい野菜があるとなお良い。叔母は卵を3個茹で、失敗した2個を啜るように食べていた。

 テレビを消し、洗濯機の音で過ごす。昨日の日記を読み返しながら(私は本当に、自分の書いたものを自分でよく読む)。いつまでも生きていたい、というあの日記のタイトルには意味や意志がないから良いのであって。いつまでも生きていたいなんて思わない、と思っていたから見つけてもらえたけれど、今日の私はいつまでも生きていたいと思っているんだろう。

 所有してしまった意志は言葉に換えられない。あるいは言葉に換えることで損なわれるところに意志の本当があるんじゃないか。

 街に対して人間が取り得る態度には旅行者と生活者がある。旅行者のように生活をし、生活者のように旅行する者もあるだろうが、私の日記は紛れもなく純粋生活者の日記だ。ここはパリではないけれど。堤川を「青森のセーヌ川」と棟方志功は言っていた気がする。

 洗濯機が止まった脱衣所でAuroraを聞いているとほしさんから電話があった。2分くらい話して切る。

 保苅瑞穂の訳によるラフォルグの『冬が来る』の、切り取られたある一節には陰鬱な心が見えなくてよかった。ただ全篇を見渡したならきっと私はそれを嫌いと言うだろう。やまびこさんが自身の詩を見せてくれた。「今夜 / わたしがなつかしむ / 古いものには / 順がある」

 自負というよりは甚だしい自惚れといったほうがいい、そういうものがない人間は書く人間に値しないんじゃないか。誰もが作家になれる時代など到来していない。見誤るなよ、と思う。それは私自身に対して。私が君の努力を知り得ないように、君も私の努力を知り得ないのだから。思う存分楽しんで。

 夜、チョコレートチャンククッキーを見ていたら「たしかに、川は水のかたまりだ」と思った。

負けるのはつまらない。だから僕は負けない

 

 11月2日火曜日。

 今朝シャワーを浴びるとき鏡で自分の裸を見ながら鉛筆の動かし方について考えていた。ドガパステル画。そこには若草色、のような緑色がなかったか? 記憶が定かでない。

 祖母から電話があった。正確には叔父の指示で。「電話が壊れているかもしれないから、試しに電話をかけてみろ」と聞こえたらしい。私たちに恥ずべきことなど何もなく、ただ意志とは何かを問い続けるのみであると思う。

 20時頃勤めを終えて出る。キンミヤの残りをサンガリアのレモンの炭酸水で適当に割って飲む。勝つことに対する喜びよりも負けることに対する退屈や悔しさを持ち合わせていたいと思う。それは敗北しながらでも叶うことであり、とかく抵抗の姿勢を崩さないことが精神の核を成す私でありたい。萩原朔太郎よ、酔人の芸術を見たくはないか? 私は私の死後にも応答する。そのために現在を生きているのだから。死後の長い沈黙にあって語りうる私を。