生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

人間は揉みたがる生物

 

はじめに

 食べることに対してそこまでの思い入れがないというよりは、食べること以外への思いの方が自分の中では優位を占めているから、フォーラム八戸の脇の階段にすっかり座り込んでしまって、上映時間までの間、ローソンで買ったパンを貪るということにはいっさい抵抗がないし、新町通りを挟んでおよそ真向かいに位置するドトールとガストを愛用している。つい最近まで、猫背をかっこいいと思っていたから、背中を丸めて古川の歩道橋を渡りつつセブンイレブンアメリカンドッグを食べていた。現在は工事中で立ち入ることができないけれど。

 しかし。背筋は伸ばしていたほうがよいということにようやく気がついたし、自分にとってこの関心の薄さというのは、長く一人で過ごしてきた時間がもたらしたものだということは明らかなのだった。食事とは行為ではなく時間のことだった。

 はらわたが煮えくり返るようなことが起こったとき、それをうまいうまいと頬張ってのける精神でありたい、とは思う。

 

トマトとツナのサンドイッチ

 パン工場に勤めていた。カスタードクリームやチョコレートクリームを手作業で包むのだが、ベルトコンベアの上のパン生地とともに自分も下流へと流れていくので、しょっちゅう怒られていた。深夜、鬱々とした気分をひたすらスイートブールの生地に丸め込んだものだが、映画『アズミ・ハルコは行方不明』の中で、蒼井優があのパンにかじりつく場面があり、スイートブールを成形する際に擦ってできた小指の傷も報われた。辞めたあともパン屋に勤めた。自分が仕事でパンに携わった時間は合わせて4年ほどになる。好きな食べ物を聞かれても、パンとは答えないだろうけど。

 今日、オルブロート久須志店で、8枚切りの食パンを1斤買った。油を切ったツナの缶詰に、薄くスライスした玉ねぎ1/4個を合わせ、マヨネーズ大さじ2と和える。サンドイッチというのは、何を挟むかではなく、何で挟むかによって決まるものだ、と、思っていたけれど、モンドールのツナサラダへの憧れ。黒オリーブとブラックペッパーの他に、何かスパイスの効いたあの味はちょっと家では真似できない。結局、エスビーのカレー粉を小さじ1/2ほど加えた。

 ネオソフト(これはマーガリンではなくファットスプレッドである。油脂の含有量の違いによって区分され、バター、マーガリン、ファットスプレッドの順で脂肪分が高くなる)を塗った食パンの上にツナサラダを敷く。

 生のトマトをよく食べるようになったのは今年の夏だ。しかし買うと高い。いつか田茂木野の荒地を開墾してトマトを作りたいと思っているけれど、これからも自分はトマトを買い続けるのだろうという、裏切られることを期待している予感がある。2個で198円のトマト。くし切りにして交互に並べると、橋梁の鉄骨のような断面が現れると見聞きしたので真似をした。

 ツナサラダの味わいは、憧れたモンドールのものとはまるで異なるが、カレー風味も悪くない。しかし玉ねぎはみじん切りに、トマトは輪切りにすべきであった。崩れ、は幸田文の代表的な作品であるにも関わらずまだ読んだことがない、ような気がする。

鶏の唐揚げ

 恋人の胃袋を掴みたいのであれば断然、鶏の唐揚げであろう、との算段である。下味に使用する生姜やにんにくは、きっとチューブのものでもかまわないのだろうが、私のような料理素人に限って、材料にはこだわりたがるもので、生のものを買った。にんにくは青森県産で、スーパーふじわらにて1個130円だった。

 生姜40グラムをすりおろす。にんにくは2かけ、これもすりおろす。さすがに皮膚をすりおろすだけの潔さはないので、最後に小さくなった欠片はみじん切りにして入れた。酒としょう油を大さじ2。塩小さじ1/2、こしょう少々、の少々。

 スーパーふじわらの肉はうまいと巷で評判らしいが、私はハッピードラッグに近頃出現した精肉コーナーを気に入っている。鶏のささみ肉が毎日グラム75円という安定した価格で売られており、時々パイカ(豚バラ軟骨)なんかも置いてある。圧力鍋を手に入れたら調理してみたい。今日はスーパーふじわらの鶏もも肉を2枚、大きく切って先ほどの液に漬けた。

 置いておくだけでも十分味は染みこむものだと思っていたのだけれど、しっかり揉みこむことで、肉が調味液をすべて吸うのだそうだ。このことが、学習指導要領のどこかには書かれているものと信じたい。

 粉をつける工程で私は重大な失態を犯した。下味のついた肉に小麦粉40グラムをまぶし、それから片栗粉40グラムをつける、というのが正しいとされるやり方なのであるが、私は小麦粉と片栗粉をすっかり混ぜ合わせてしまった。しかし小麦粉の中から片栗粉を選り分ける、なんてそのような根気はない。あったほうがいいとも思わない。要らない。そのまま肉に粉をつけた。

 いよいよ揚げる。冷たい油から、はじめは強火で、温度が上がったら中火。肉が半分油から顔を出すくらいの油の量でいいらしいのだけど浸かるくらい注いでしまった。少ない量の油で揚げることには、二度揚げに相当する役割があるらしい。肉が空気に触れることで表面が香ばしく仕上がるというので、肉を返すとき大げさに油から出して掲げてみた。揚げ時間は勘。

 しなしなの鶏の唐揚げが完成した。生姜とにんにくはチューブではいけないと思った。味が濃いのは揉みすぎたせいか、しかし人間は揉みたがる生物だ。粉のつけ方、油の量を改善すれば、さらにうまい鶏の唐揚げができるだろう。

ポテトサラダ

 ポテトサラダが食べたい。マヨネーズで湿ったやつではなく、黒胡椒が映えるような、洒落た、乾いたやつを。

 安くないけどスーパーふじわらで買ったじゃがいも3個は皮を剝いて4等分くらいにし、水から茹でた。やわらかくなるまでだいたい20分くらい。途中、かたさを確かめるために竹串を刺そうと思ったのだけどないのでつまようじを刺した。沸騰した湯の中に指が入った。

 きゅうり1本を薄い小口切りにし、塩を振って置いておく。本当に、ポテトサラダにきゅうりは必要か。ポテトサラダにおけるきゅうりの存在は切実さに欠けるんじゃないのか、と実は思っている。けれど断つ勇敢な心も私にはなくて、圧倒的に、私はきゅうりに敗北している。しばらく置いたあと、キッチンペーパーに包んで水気を絞った。

 玉ねぎは粗みじん切りにしてこちらも軽く塩を振って水気を絞る。こういうときのために、ふきんがあるといいと思った。破れたキッチンペーパーを食する恐れがある。

 冷蔵庫に10月4日が賞味期限のハムが2枚あったから使った。短冊切りにする。

 ゆで卵を作る。沸騰した湯で9分茹でるのが自分の中の最適解なのだけど、今回は教本に則って水から茹でた。沸騰してから8分。黄身にほどよく火の通る仕上がりとなった。ちょうど霞んだ月とその周辺のような色合い、とはいかず、そのような雅な比喩は私が私自身にご遠慮願いたいのである。頬が紅潮する3秒前、もやりすぎで、私にはもう何も言うことはないので粗く刻む。

 マヨネーズ100グラム、と言われても見当がつかないので計量した。自分の中にある薄汚れた気持ちを吐き出したらこれくらいの量と粘度になるだろう、と思った。

 最後、レモン汁と塩とこしょうを少々加え、和えたら完成。マヨネーズは半量でよかったかもしれない。今日の気分はウェットなポテトサラダを欲してない。茹ですぎたじゃがいもの食感もやや残念であった。自分の指を茹でてる暇などないのだ。そして、きゅうりはやっぱり要らないんじゃないかと思うのだけれど、どうだろう。いなくなってから気がつくなんてやっぱり君は愚かだね、とか言うんじゃないだろうな。

 

参考 『土井善晴のレシピ100』土井善晴著 学研プラス刊