生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

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 3,850円を払って『切り裂かれた未来』というビデオを見た。

 これでは足りませんよ、と思わず財布の口を開けたくなるほどの大いなる絶望を味わった後で交付されたブルーの帯の運転免許証(AT限定)の奥底からこちらを見つめている私は、今後切り裂かれるであろう未来を憂う人間の顔をしていた。運転免許センターへ自転車で行って自転車で帰った。

 青森駅前のガストから喫煙席が消えたので、あの席を使うために店員に見せる以外に用途のなかった免許証もついに20万円で手に入れたゴミと化した。派手な爪と爪の間にやたら細い煙草を挟んで吸っていた友人も今冬には母親になるらしい。子に会わせてくれよ、とは思う。

 保坂和志が『かきあぐねている人のための小説入門』の冒頭に書いている。

 「社会化されていないということでいえば、小説家のなかには、私のようにクルマの免許を持っていない人間がざらにいる。そういうことには平気でいられるのが小説家であり、…...(以下省略)」

 書き手としての自負をこんなことで高めたくはないのだが高まったのもまた事実である。免許を手にしている時点で私は湿った骸ではあるが。わが魂よ、どうしてもそうなってしまう、という不可抗力によってのみ支えられてあれ。胡散臭いソバージュの美術教諭より、電気グルーヴの『カフェ・ド・鬼』を鑑賞するだけの授業をした地味な見た目の美術教諭のほうが好きだった。

 自らの生活における利便性の向上を図るよりも他人の生活を脅かさないほうが自分にとっては1,000,000,000,000倍も重要なので車の運転をあえてしない、という選択は間違っているだろうか? 

 他人の生活を脅かすことなく自らの生活の利便性の向上も同時に図ることのできる優れた人間たちが運転するマシン、に追い越されながら歩いたり自転車に乗ったりしている自分も嫌いではない。

 しかし書きながら思ったことは書き留めるべきだ。そもそも向上心とは何なのか、と。いつか自分が難なく車を運転できるようになったとして、そういう自分のことを今よりも好きになる可能性だってあるじゃないか。それを向上心というんじゃないのか。

 と、ようやく重い腰を上げたところで運転は座りながらするものなので別に支障はないのだが、昨日、わくわく広場の出口から左折して出ようとして車体の左側を垣根に擦った。出口のないわくわく広場。いや出口は用意されてある。皮膚にハザードランプを埋め込もうと思った。

 こういう人間も車に乗った際には必然的に助手の役を任されるがこういう人間である以上は助手の役もまともに務められるはずがない。開けた海岸ではなく鬱蒼とした森の途中で夜明けを迎えるのである。現在の私に現在地など無い! と潔く言い切ってしまいたいが、どうしようもなく道に迷ってもどうにか笑って生きていたいというのが本音である。朝焼けを見たいのではなく、見せたい。