生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

アシッド・ワーク

 

 7月31日日曜日。

 ここ数日抑鬱状態だった。二十歳の時に一人函館で見た、濡れた猿の金玉の写真を眺めても気分晴れず。活動することによって活動するための気力を湧き上がらせる。

 洗濯。表は久しぶりに日差しがあるのでベッドシーツやソファカバーなど大きめのものも洗った。

 念入りコース(51分)で洗濯している間にAcidclankの配信見る。現在のバンド編成とは異なる2017年のシングル『Rocks』は当時CD屋で見かけてジャケットが好きだったので買った。「ドラムとベースがさっき電撃脱退したのでメンバー募集します」というツイートの後も聞いていたがライブを見たのは今日が初めてだった。かっこよかった。

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 濡れた洗濯物を抱えて外へ。自省録第4章の2に反し、とても雑に広げて干した。

 こないだ酔っ払った帰りに買ったカレーうどんを食べる。Tシャツの内側で汗が垂れ流れるのを感じる。テレビでYOUR SONG IS GOODの配信を見ていた弟が「涼しくなる」と3回言った。

 鈴木雅之に夢中になってる弟を残して15時頃父と母と出る。ドリームタウンのダイソーで初心者マークを買おうとセルフレジの前に立ち財布を開けると2円しか入っておらず。父に買ってもらう。大野のユニバースへ。外が暑すぎてユニバースが寒くない。アボカド初めて買ってみた。

 帰宅。まるで良さのない散らかった部屋を片付け、良さだけがある片付いた部屋で『初花 / うきぐも』のCDかける。とてもいい。

 かれんちゃんから畑でもらったミニトマト。アボカドとチーズと塩と油。サッポロクラシックミニトマトはぶどうみたいに甘くておいしかった。

 私の「何かに救われる」という感覚の希薄なこと。「〇〇に救われた」と口にする人のことが私にはわからない。「救われた」と言いたくないのかもしれない。

 何をしても何を見ても何を聞いても何をされても、何も感じられない時が私にはある。冷淡なのかもしれないし、むしろ湿っぽいのかもしれない。

 誰かや何かは、私に救いの手を差し伸べているのかもしれない。それに気がつくことのできる人になるために、これからどうやって生きていくか。本当は、「自分にも救いの手が差し伸べられている」とか書いている自分が気持ち悪くて仕方がない。

 今の私は「私は誰のことも救うことができない」という信念の下で生きている。これは悲観ではなく、実感として。何か混同している部分があると思う。もっと別のアプローチができたらいいと思う。

 どんなことも、いったん忘れて、それから思い出せばいい。