わたしの、生きることそのものに対する気概というのは、並大抵のものではない。よりよく生きようと努めることを理知というのであり、すなわちそれこそが人間らしさであるということに、気がついたのだ。しかしこのところ、どうも気にかかることがひとつある。車の運転である。
昨年、わたしは車の運転免許を手に入れた。
わたしは、高校を卒業したあと関東のほうに就職することが決まっていたので、放課後せっせと教習所に通う同級生たちの姿を見やっては、「ふっ、田舎者め…」と馬鹿にしていたのであるが、半年経たないうちに、しれっと地元に戻ってきた。
地元で再就職するためにはやはり免許が必要ということになった。気がつくとわたしは身一つで山形県へと乗り込んでいて、二週間にわたる壮絶な合宿の末に免許(AT限定)を取得した。
しかし残念なことにわたしは、運転の技術にまつわる一切の記憶を失っている。あるのは、教官のおじさんたちとの和やかな思い出だけだ。さらには、「パン屋」という、まったく車を運転する必要のない仕事に就いてしまったために、卒業検定以来、わたしは一度も車を運転していない。
そんな免許証の写真のわたしは表情がたるんでいる。
こうしている間にも、世界のどこかでは絶えず争いが巻き起こっている。この争いの意味とはいったい何なのか、そんなことを考える隙も与えられないまま、罪の無い子供達が、今、前線に立たされている。命を懸けた戦いというものは、たしかにある。しかしそれは決して、他人の命を侵すものであってはいけない。自らを懸けて戦うべき相手とは、常に自分自身でなければいけない—。
そういったことをまるで考えていない間抜けな一瞬間を、この写真は見事に切り取っている(表情とは生まれつきのものではなく、人生という途方もない過程の中で獲得していくことのできる、ある種の希望であるはずなのだが)。
爽やかなブルーの背景が、どこか遠くの戦場の上にも広がる青空のように思えてきて、わたしはなんだか悲しくなった。
さて、車を運転しないという道の先で、わたしを待ち受けているものとはいったい何だろうか。それは、ゴールド免許である。
ゴールド免許とは、五年間無事故無違反を続けたあとで免許を更新すると交付されるようである。丸一年もの間、わたしは運転をしなかったのだから、今後五年間運転をしない可能性というのは大いにある。そうすればわたしもいずれは無事故無違反をたたえられ、「優良運転者」として社会から認められることとなるだろう。一見すると、光栄なことのようである。
しかしわたしは、それがつらいのだ。社会をあざむいて、優秀なドライバーのふりをしているのがつらいのだ。みなさん、ちがうのです。わたしは、そんな立派な人間ではないのです。
わたしは、適性検査において、虚飾性の高さを指摘された人間である。機械ごときに、わたしという人間の本質を見抜かれてしまったのだ。
わたしは、ひどく恥ずかしい思いがしてすぐに用紙を伏せたのだが、この結果を隠そうとすることこそがどうしようもない虚勢なのだと気がつき、ふたたび赤面した。そのときわたしは、もう二度と自分を偽ることはしないと、こころに誓ったのだ。
だからせめて一度くらいは事故を起こさなければならないと思っている。力強くハンドルを握り、暴走し、激突する。
わたしは命を懸けて、「わたしは安全ではありません」と証明してみせる必要がある。ありのままに運転をし、ありのままに事故る。そうして、ありのままのわたしを受け入れてもらおうと思うのだ。そのとき社会はきっとこう言うだろう。「煉、君はとんでもない正直者だ」と。
車から身を投げ出されたわたしは、清々しい笑みを浮かべながら天を仰ぐ。そして感じるのだ。ああ潔癖の身の、なんと美しいこと!
傷だらけのわたしは、青空を見上げながらある言葉を思い出す。自らを懸けて戦うべき相手とは、常に自分自身でなければいけない—。
いけない。このあまりにも無意味な自意識の戦線にわたし以外を巻き込むことなど……
いやいや。こんなのを何日もかけて真面目に書いてきたけどこれもぜんぶ虚飾だ。そもそも故意であり事故ではないから捕まる。警察から動機を尋ねられたらどうしよう。「自分の精神の向上のためだ。」などと格好をつけても通用するとは思えないから、適当な嘘をつくのだろう。げすだ。それに、よりよく生きるためにその命を放棄するなど、本末転倒もはなはだしい。いったい何がしたいのか。
あらゆる角度から見た死から遠回りの道を辿るには、自分の足でアクセルを踏むべきか、それとも車から降りて自らの足で歩くべきか。平和の鐘は、今どこで鳴っているのか—。などと結んでみたかったのだが。
わたしは、免許を更新しないだろう。
(2019年)