生きてるだけで、ワーイ

鳴門煉煉(naruto_nerineri)の日記

おしり

 

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 今日は火曜なので、ジャスコはひじょーに混んでいました。1階にある画材屋さんで、木版画の道具一式をそろえようと考えていたのですが、とりあえず、彫刻刀とはがき大のベニヤ板一枚をば。インクや紙は、次回にしますと言って帰って、さっそく、後ろからみた女性のおしりを彫りました。

 自分は最近、このおしりのことで頭がいっぱいなのです。棟方志功記念館のお庭にあった彫刻です。ひと目見て、いいなあと思いました。それからおしりが好きになりました。

 でも、どんなおしりでもいいってわけではないです。それは言葉どおりの尻軽です。覇気のあるおしり、やさしさのあるおしり、脂肪のうねうねから生命が感じられるおしりなど、自分の好きなおしりはさまざまあります。

 棟方志功(スコさん)にはこんなエピソードがあります。おさないころ、田んぼに飛行機が墜落したので、みなで学校を飛び出して見に行きました。すると、急いでいたスコさんはすってん転んでしまった。そのとき、目の前に咲いていたのは沢瀉(おもだか)の花。スコさんは飛行機のことも忘れ、その気高い花に見とれます。そしてこう思うのです。「この美しさは、自分だけのものだ。自分は、この美しさを表現できる人間になりたい。」

 スコさんにとっての沢瀉の花が、自分にとってはおしりなのです。ちなみに、この女のひとがおしりを突き出して見ていた先には、ひこうき雲がありました。

9月19日

 

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 『日記というものは本来他人に見せるべきではないということを忘れるな』という野暮ったいが真理に迫っているような気もしないでもないタイトルで日記をインターネット上に公開していた。結局はやはり人に見せるものではないと悟って閉鎖したのだけれど日記あるいは心情といった表向きではないものを公開する癖は今日になっても抜けない。▷最近では自分の自閉的な部分を他人の目でもって見ているような感覚を得る。またこれまで私は幻聴に悩まされたという経験はないがそもそも自覚していたのならそれは幻聴ではない。自分の思念が実際に(実際ではないのだが)像を結んだり音や声となって自分の鼓膜に向かってくるということはあって不思議でないと思うようになった。▷私は常に閉じている人間だ。書き癖は孤独の噴出だろうか。そんな大したものではないがそれにしても私は孤独への感度が薄い。寂しいという感情を持ち合わせてはいるかもしれない。ただそれが他人との関わりによって慰められるような性質のものであるとは考えない。慣れではないはずだ。理解は同意を意味する言葉ではない。私はそばにいてくれる友人らに感謝している。▷やはり苦悩はすすんですべき種類のものではない。三日前ノートを買った。今度こそは人に見せまいと紙の上に日記を書きはじめたのだ。これは続けることが目的であって読み物としての面白さを目指すものではない。ただ自分は自分の書くものの面白さに期待してしまっていた。三日書いて三日とも恥ずかしい思いをした。自分しか見ていないということがこんなにも恥ずかしいのである。自意識の強大さに打ちのめされた。閉鎖された空間であれば正直な言葉を綴ることができるだろうとのもくろみは誤りだった。虚飾された言葉の行き先がない。他人の目あるいは心に触れて発散しない。私は耐えられそうにない。▷書くことに迫られているような気がしていたが実際はこちらから一方的にしかも非常識的に距離を詰めているに過ぎない。書くという行為は誰をも歓迎などしていないはずだ。しかし「自分は書くという行為から必要とされているのだ」という激しい思い込みを侮ることは私にはできない。私は幻を肯定する立場にある。▷来年の10月で志賀直哉の死から50年が経つという。50年前などつい最近のことではなかったか。生きてみた経験はないが。50年という時間はおそらく早々と過ぎるだろう。▷以上に述べた思案が明日の朝には逆転していたとしても何らおかしくはない。

料理のさしすせそ

 

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 「料理のさしすせそ」について、セイカクに、あなたは答えられるでしょうか?

 

 「さ」は砂糖、「し」は塩、「す」は酢…… と続きますが、これは、料理に欠かせない調味料の名を、表すだけものではありません。料理をつくるときの、調味料を入れる順番をも、表しているのです。つまり、味付けの際は、砂糖から入れていくとよい、ということです。たとえば砂糖には、味が染み込みにくい、塩気の強いもののあとでは甘味がつきにくい、などの理由があるそうです。私はよく、土井義晴せんせーのレシピでひじきを煮ますが、たしかに、まずは砂糖を入れてから煮ていきます。

 さて。さ、し、す……とここまで順調にやってきました。しかし、「せ」の調味料とは、何かしら? 考えてみましたが、思い浮かびもしない。でも、大丈夫。これは、誰もが滑落する人生の崖にあたる問題ですから、答えられなくても気にすることはないのです。そして、こんなものは、大したことのない崖です。

 なぜなら、答えは「せうゆ」だからです。皆さまお察しのとおり、これは「しょうゆ」を指します。このことから、「料理のさしすせそ」が、「せうゆ」の頃から現在まで受け継がれる、優れた教えであるということがわかります。

 わたしは、このことをはじめて知ったとき、ヒューと崖から落ちる夢から、パチッと目覚めるような感じがしました。なんだ、夢か、というふうに、なんだ、「せうゆ」か、といった気持ちがしたのです。

 崖から落ちる夢をよく見るからか、「せうゆ」のことも、よく覚えていました。

 きのう、パン屋で店長さんに、例の「せ」について聞かれたんです。パン職人のおねえさんは、答えられませんでした。問いかけられたわたしは、いかにも得意げに、さらっと答えてみせました。「しょうゆ」と。しかし、そのときわたしは、気がついたのです。

 「そ」を、知らない……。

 わたしはこれを、「せの慢心」と名付けました。「せ」の先があることをすっかり忘れて、「せ」にいつまでも浸っているのです。わたしは、目の前の崖にとらわれがちです。そして落ちてみて、大したことないなあ、と思いながら、わたしはいつまでも「せ」の海に浮かんでいるのです。「せ」の中の蛙は「料理のさしすせそ」という大海を、知ってはいないのです。

 ……パン屋での会話に戻りますね。わたしはそのあと、つまり「そ」については、追及されることはありませんでした。「せ」がわかるのだから「そ」も知っていると、思われたのでしょうか。だけど、わたしの心にはずっと、引っかかるものがありました。くりかえして言いますが、わたしは「そ」が何なのか、わからないんです。店長さんやおねえさんは、わたしのことを「『料理のさしすせそ』の全知全能の神」と思っているかもしれない…… そう思うと、だんだんつらくなってきた。「せ」の海に浮かんでいる自分の姿が、ありありと目に浮かびます。

 たまらずわたしは、おねえさんのところへ駆け寄り、尋ねました。

 「『料理のさしすせそ』の『そ』って、なんですか?」

 そのとき、おねえさんは、生地にあんこを包んでいる最中でした。あんこを包むのは容易ではありません。体じゅうに張り巡らされてる神経を、銀色に輝くたった一本のヘラに、集中させなければならないのですから。しかしおねえさんは、手を止めて教えてくれました。

 「わたしもわからなかったんだけど、『みそ』らしいよ。『ソース』だと思ったよね!」

 

 アー、船が進んでいきます、未知なるほうへ、進んでいきます、新しい海が、新しい海が、わたしにも見えてきました、船が海を裂いていくでしょう、ひらかれた海の傷口から、虫のように湧いて出るあの白い泡を、希望に似ていると、思ったことはありませんか……

 

 ザザーン、ザザーンと、岸に打ちつける波の音がしてきて、わたしは「せ」の海から「料理のさしすせそ」の浜辺に打ち上げられたような思いがしました。あるひとつの海を、ひととおり泳ぎきったのだという心地です。さっきまで泳いでいた海を眺めつつ、潮風にあたっていると、ふと、ある疑念が浮かびます。海は塩の味なのか、それとも塩が、海の味なのか……。

 気がつくとわたしはふたたび、いいえ、新たなる大海へと、放り出されているのでした。

 

 

飽きたらやめる弁当

 

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 わたしといふのは、じつに絶望しやすい生き物だと、つくづく思ふ。

 たとへば、昼時。べんとばこの蓋を開ければ、うれしさふつふつとこみ上げてくる。しかし。箸を忘れてきた、気がついた途端、こころはたちまち、腐つた花だ。

 アー、なんと、惨めなのか!

 蓋をそつと閉ぢ、また瞳を閉ぢ、さらにはこころの窓をも閉ぢ。箸を置きたし。けれども置く箸がなし。つまるところ、絶望。

 しかしわたしとて、人間。それは、叡智と努力の結晶。クヨクヨするのはもう飽きた。人間ならば、成長せねば。さあ、絶望を回避する、新たなる道を、切り拓こうではないか!

 

〜箸を忘れてもなんとかなる!おかずベスト3〜

 

1位 「ミニトマト

理由 箸があっても箸を使わない場合が多い

欠点 おかずとは言い難い

 

2位 「たまごやき」

理由 ちょっと手が汚れるけどアリ

欠点 見当たらない 味付けが難しい

 

3位 「ミートボール」

理由 ボールは掴みやすい

欠点 手が汚れる

 

再協議の結果、「串に刺したミートボール」が1位ということになりました

 

・「なめたけ」や「刻みオクラ」の日に箸を忘れないようにしましょう 救いようがありません

・「きんぴらごぼう」が箸の役割を果たす可能性があるため、ごぼうは長めに切るようにしましょう 柔らかく調理するのは甘えです

 

 精進。

 

 

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明日になったら、お母さんが死ぬような気がした。

 

夏は好きです。野菜がおいしいから。勤めを終えたあと、近くのスーパーに寄るのが大好き。野菜売り場は、本当にすてきです。だってトマトがずっしり赤い。こんなにすばらしいことが、ありますか。大葉は瑞まで光っているし。とうもろこしを見かけるたび、食べたいなぁと思うのですが、今年はまだ。

 

むかし献血にいったとき、お医者に血を褒められたんです。それが、わたしは、とてもうれしかった。

 

明日、お母さんが死ぬから、今日、料理を教えてもらわなくちゃと思ったんです。

お母さんのつくる料理では、きんぴらごぼうとなすの味噌炒めが好きで、きんぴらごぼう、自分ひとりでつくったこと、まだないから、朝、お母さんといっしょに、スーパーへ買い物に出かけた。ごぼうのほかにも、たくさんの野菜を買いました。きっと、今週は、豪華な食卓になります。

 

飼っていたクワガタが、今日死にました。むかし、アパートの前で弱っていたクワガタを、お姉ちゃんが助けたんです。「眠っているんじゃない?」と、わたしも弟も言ったけれど、お母さんだけは「死んでる。」とはっきり言いました。本当に、まったく、動かなくって、わたしは「変なの」って思いました。埋める場所を、考えなくてはなりません。

 

わたしは、包丁を使うのが下手くそだから、あまりに不格好な千切りのごぼうを見て、泣きそうになった。水にさらして灰汁抜きをしている間も。

仕上げには、炒りごまを散らす。わたしは、手を滑らして、鍋の中が、真っ白になる。雪が降ったみたいになった!そのとき、お母さんが、わたしの方を向いて、笑った。どうしてそんなに、ちいさく笑うのか。もっと、派手に笑いなよ。そんなんだから、みんな、お母さんがかわいいことに、気がつかないんだよ。この人は、まだ、死ぬには早すぎると思った。わたしは、台所に立ったまま泣いた。

 

夕飯だよう。起きてよ。ごはん食べてよ。

お母さんが、灯りのついていない部屋の椅子に腰かけ、わたしを呼ぶのでした。

もっと、お母さんに褒めてもらえるような、立派な娘でいたかった。

 

明日の朝ごはんが煮えたので、火を消します。

半分

 

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 昨晩わたしは考えた。こんなみっともない気持ちを紛らわすための方法について。喉がかわいたので、家から二番目に近い場所にある、百円の自販機まで歩いた。途中で煙草の自販機もあり、吸うならば今だ!と確信したのだが、ライターを持ってない。こういう、下手な冷静さには嫌気が差す。いやいや。そんな場合ではない。

 缶のコーラを買い、飲みながら歩いた。そして、明日は日の出を見ようと企んだ。さっそく時刻を調べた。4時ころ起きて出発すれば、ベイブリッジの上からぼんやり日の出を眺めていられるはず!よかった。

 家に帰った。缶のコーラは飲みきることができなかった。歯を磨くためにまず服を脱いだ。そして、風呂場でめちゃくちゃに湯を浴びながら歯を磨いた。ちょっと自分でも意味がわからなかった。電気をつけて風呂に入るのは久しぶりだった。鏡に映った自分の身体に、たくさん脂肪がついていた。こんなふうに生きていても腹が減るのはみじめだなあと思った。いやいや。そんな場合ではない。髪を乾かさないまま布団に入った。

 やな夢を数度くりかえし見た。眠ってたのかよくわからないが起きたらすでに日が昇っていた。いや、日が昇ったので起きた。うす暗いあるいはほの明るい。うーん前者だな。という明度の中で着替え、家を出た。とりあえず歩く。間もなく5時になろうという時刻。

 昨日暑かったから、どの家も窓を開けたまま夜を過ごしたようだ。歩いても歩いても、庭の花以外は死んでいる。うれしい。車通りがないから道路の真ん中を歩いたりした。死のうという気持ちがなくなった。

 家から駅までは20分くらい歩く。日の出は叶わなかったが、始発列車ならば間に合う。短い脚で鎖をまたぎ、ベイブリッジへの階段を上る。ちょうど奥羽本線青い森鉄道線が出発した。今日はもう、ほかにすることがないと思った。見送りたい人がいるわけでもないから何の感慨もなかった。常に誰かが自分を見ているのだということは思った。これはよくある。見てるだけでべつに干渉してこないから気に留める必要はない。

 もっと明るい人間になりたい、明るい人間になりたい、と念じながら青い海公園のほうへ歩いた。空は徐々に明るくなってる。だけど思い浮かぶことのすべてがどうしてこうも沈みがちで重たいのか。もはや思い浮かんですらないのか。海底に沈んでる石が軽やかな気持ちに変わるのを待てないだけなのか。なんにせよ明るくなりたいものだ。しかし車の音も鳥の声もなくなって、海辺にほんとうの静かさがつかの間訪れた。この時わたしは心底安堵した。それでもうだめだと思った。いやいや、いやいや…。

 ベンチに腰かけた。散歩してる人がけっこういる。今は誰の顔も見たくないので、のけぞって空を見ていた。曇っている。そこにあるはずのおもしろみを見出せなかった。視界をもとに戻すと遠くの岸に餌を撒く人と群がる鳥たちが影になって浮かんでいた。ここから見ると、人間が巨大な羽虫の群れに襲われているように見えた。悪くない、と思った。

 そのあとは海を見ながら歩いた。今日、生まれてはじめて海が一枚の布のように見えた。皺の寄りぐあいがただ単純に美しく見えた。毎日おなじ海を見ている人は感動を失っていくのだろうか。それとも毎日あたらしく感動するのだろうか。だけど毎日を恐れていたらどうにもならないよなあ。感動に維持ってのはないのかも。どちらにせよ、努力が必要なのだと思った。

 ヒメリンゴの木に、薄桃色のちいさな花がたくさん咲いているのを見ていたら、すぐそばの駅のホームから列車が動き出した。バスターミナルにも続々と市営バスが集まってくる。適当にどれかに乗ってしまおうかと考えるが、手持ちがほとんどないから歩いた。地下道を通って地上に出てきたら、ますます明るくなってる気がした。階段の手すりに寄りかかってしばらくぼーっとした。青空が見えてきたとたん、つまらなく思えてきた。

 あー帰ろ帰ろ、と自棄を起こす。牛乳を飲みたくてコンビニに寄った。たぶん夜勤の店員が手早くレジを打った。店員の目を見ることができなかったのが心に重く残った。自分はもう23歳か、と思った。

 家までの道を歩いてたら、向こうから白い軽自動車が走ってきた。お父さんだった。窓は開けず、スピードを落として右手を上げた。笑っている。お父さんが死んだらわたしは泣くに決まっている。わたしも右手を上げた。明日お父さんと一緒に本棚でも作りたい、と思った。

 なんでもないのに泣けてきた。口を閉じて嗚咽したら、鳥の声になった。良くなりたいと思った。

 家に着いた。大量のビデオテープを燃えるゴミの袋に入れたのが玄関に置いてあったから、靴を脱がずにふたたび外へ出た。重たく、両手で持った。とてもおもしろいテレビ番組を録画していたテープだが、もう再生できないので捨てるしかないのだ。すでに集積所には多くのゴミが積まれていた。それらの上に、ビデオテープの入った袋を乱暴に投げてみた。すっきりするかと思ったが、そうでもなかった。

 母は掃除機をかけていた。わたしが帰ってきたことに気がついておらず、母の背後に突っ立ってみたら驚いていた。手を洗い、買ってきた牛乳をコップに注ぎ、冷凍してたパンを焼いて皿の上に載せた。いつもは台所でやるのだが、今日は自分の部屋でコーヒーを淹れた。あたらしい豆の袋を開けた。挽いたばかりの新鮮な豆が膨らむのを楽しみしてたのに、ただ土に湯をかけてるようだった。昨日とは違うCDを選んだ。ソファーのようなものに寄りかかり、ほとんど寝そべるかたちでコーヒーを飲みながら本を読んだ。コーヒーはあまり美味くなく、本はおもしろい。冷めてしまったコーヒーが残ってる。これでまだ半分なのか。